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ブックガイド

 このページでは、主に実証的な科学についての論考、認知心理学的な論考、歴史に関する論考を紹介しています。これらの著述は、音楽について、音楽と自分について、音楽と社会について考えるために役立つことでしょう。

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目次:

1. R. P. ファインマン 『ご冗談でしょう、ファインマンさん』I、II
2. Collin A. Russel  『科学史へのさまざまなアプローチ』
3. T. ギロビッチ 『人間—— この信じやすきもの』
4. 下條信輔 『サブリミナル・マインド——潜在的人間観のゆくえ』
5. ミルチア・エリアーデ 『オカルティズム・魔術・文化流行』

6. J. スウィフト 『ガリヴァ旅行記』
7. マーチン・ガードナー 『奇妙な論理 —— だまされやすさの研究』I, II
8. W. ブロード/N. ウェード 『背信の科学者たち』
9. アレクサンダー・コーン 『科学の罠』
10. ヘルマン・ヘッセ 『ガラス玉演戯』


11. ソースティン・ヴェブレン 『有閑階級の理論』
12. ヴェルナー・ゾンバルト 『恋愛と贅沢と資本主義』

13. 宇山卓栄 『経済で読み解く世界史』

14. 呉座勇一 『戦国武将、虚像と実像』

補遺:音楽学と音楽評論

 

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1. R. P. ファインマン著・大貫昌子訳
『ご冗談でしょう、ファインマンさん』I、II
岩波書店、1986


 音楽について考えてみたい人、音楽研究をめざす人には、特にIIの最後に収録されている「カーゴ・カルト・サイエンス」(カリフォルニア工科大学1974年卒業式式辞)をお薦めしたい。これは科学研究のあり方についての簡潔で、しかも核心を突いた記述。著者は物理学者、いわゆる科学者だ。この式辞はいわば「科学者の卵」に向けて語られたもの。そして音楽学も広義の「科学 science」だ。

 この式辞には研究者が注意しなければならないことが具体例とともに簡潔に述べられている。たとえば「自分の理論に都合のよいデータを示すだけではなく、そうでないデータや、他の可能性も正直に報告しなければならない」という箇所には大いに考えさせられる。

 またネズミが本当に迷路を記憶して特定の扉にたどり着けるのか、という実験のエピソードは、一見科学的に見える実験や測定の落とし穴を示している。結局、ネズミは反響音を手がかりに特定の扉に到達していたことがわかるのだが、性急に結論を得ず、あらゆる可能性を丹念に検討していく姿勢が実証的な研究には不可欠だ。

 後述のガードナー『奇妙な論理』と合わせて読まれることをお薦めする。

※訳書では"Cargo cult science"を「積み荷信仰式科学」と訳している。しかしここでの"Cargo"とは航空機の一種としての「貨物機」、「輸送機」を意味する可能性もあり、実際にここで取り上げられている現地の人たちは、葦のような植物で実物大の飛行機を作り、山上に置いて礼拝しているので、筆者は「輸送機崇拝科学」という訳を提案したい。


2. Collin A. Russel 成定薫訳
『科学史へのさまざまなアプローチ』
C. A. ラッセル他著:『宇宙の秩序』(OU科学史 I)創元社 1983所収


 「本書は『科学的な』信念体系と『非科学的な』信念体系ともいうべきものの相互作用について論じようとするものである。」(5ページ)

 音楽についての著述、思想、研究はしばしばエリアーデ的な意味での「宗教的な性格」を帯びることがある。ある特定の作曲家や演奏家があたかも神あるいは聖人であるかのように扱われ、その作品や録音は聖なる創造物とみなされる。

 この種の著述では、その音楽家の偉大さのみが強調される。不品行でさえ「人間的側面」として美化される。また一見、客観的な伝記的事実が述べられているようであっても、それらはフィルターを通した事実、選び取られた事実であることも多い。このような資料の恣意的操作からは音楽家の一面しかわからず、しばしば虚像が肥大化し、実像は覆い隠される。

 作品に関する記述においても、一見、客観的に分析しているように見えながら、実はその作品の美点を強調することが主目的であり「偉大な作品は偉大だ」という同語反復であることも多い。同時代人の作品との公正な比較がなされることは珍しく、同時代人は「先駆者」か「後継者」に分類される。

 このようなタイプの「読み物」は依然として音楽愛好家には受けがいい。彼らは音楽的な偶像を求めているのであり、自分の愛好する作曲家や演奏家が賛美されているのを読んで満足するからだ(だから無名の作曲家の伝記はまず書かれないし、彼らの作品が分析されることもほとんどない)。

 しかし、もしあなたがこのような著述に飽き足らず、より説得力のある研究や著述をなそうとするなら、このラッセルの小論を「音楽史へのさまざまなアプローチ」と読み替えることをお薦めする。少なくとも「聖人伝」でもなければ「偶像破壊的」でもない研究が可能となるだろう。

 さて、音楽は曖昧で具体性に乏しい。またしばしば主観的に捉えられがち。音楽の受け止め方を適切に評価するためには、まず自分自身の心理の認知心理学的なメカニズムを認識しておく必要がある。また無意識あるいは潜在意識の問題も、こと音楽や音楽研究には重要な意味を持つ。おそらく音楽は意識よりも無意識に大きく影響している。


 

3. T. ギロビッチ
『人間 –– この信じやすきもの』
新曜社、1993


 第I部「誤信の認知的要因」の目次を見ると、本書の内容がおよそ理解できる。

  2 何もないところに何かを見るーーランダムデータの誤解釈

  ・ランダムな事象の誤認知
  ・因果関係の理論づけによって間違った考えがさらに補強される
  ・統計的回帰現象の誤認知
  ・まとめ

  3 わずかなことからすべてを決める
  ーー不完全で偏りのあるデータの誤解釈

  ・信念と合致する情報の過大評価
  ・仮説に合致する情報だけを探そうとする傾向
  ・隠れたデータや欠損データのもたらす問題
  ・自己成就的予言ーー隠れたデータがもたらす問題点の特殊例

  4 思い込みでものごとを見る
  ーーあいまいで一貫性のないデータのゆがんだ解釈

  ・期待や先入観の功罪
  ・期待や先入観の現れ方
  ・科学的発見のゆがんだ解釈
  ・玉虫色の解釈と玉虫色の期待
  ・成功失敗の記憶と情報の一貫性

 また第II部「誤信の動機的要因と社会的要因」も重要なことを教えてくれる。

 「5 欲しいものが見えてしまうーー動機によってゆがめられる信念」では、私たちがそれが真実であって欲しいと私たち自身が望んでいる」ことを信じやすいこと、またしばしば自己を過大評価しがちなことが述べられている(このために私たちはお世辞に弱い)。また、人間は自分の成功の原因は自分自身に求めるが、失敗の原因は外的な要因のせいにしがちである、という指摘には苦笑してしまう。

 ここから導かれることは音楽の場合にも重要な意味を持つ。私たちは多くの証拠の中から、自説に都合の良いものを選ぶ傾向があり、自分が真実であって欲しい、と考えることを支持する説や意見を探し求めるからだ。これは上述のファインマンの記述と合わせて心しなければならないことだろう。

 「7 みんなも賛成してくれている?ーー過大視されやすい社会的承認」では「総意誤認効果」が論じられている。これは、ある種の信念(価値観・習慣)がどの程度人々に共有されているかを推定する際に、そうした信念を自分自身が持っていると、他の多くの人々もそう思うだろうと過大に推定する傾向をいう。これもまた、音楽を考える際に心しなければならないことだ。

 音楽研究の際にはしばしば作品や作曲家の評価の問題が生じるが、そこにはどうしても研究者の個人的な趣味嗜好が影響する。これは不可避であるとはいえ、一歩間違えれば研究の客観性を大きく損なう危険性を持つ。

 たとえば作曲家Aを高く評価する研究者は、他の多くの人々もAを高く評価すると思いがちであり、曲Xを曲Yよりも愛好する研究者は、他の人々も当然曲Xを曲Yよりも愛好する、と推定しがちだ。このように「みなもそう思うだろう」と思って、特定の評価や見解を当然のこととして無批判に提示してしまうと、研究の客観性が失われ、研究者本人が思うほどの説得力もなくなってしまう。

 また「8 種々の『非医学的』健康法への誤信」は音楽療法の効果を考える際の錯誤や誤信の可能性に気づかせてくれる。

 このように本書は「なぜ、そう感じるのか、自分自身の感覚を疑え」という点で非常に啓発的であり、また実証的な研究、説得力のある研究をなす上で研究者が注意すべきことを教えてくる。

4. 下條信輔著
『サブリミナル・マインド––潜在的人間観のゆくえ』
中央公論社、1996(中公新書1324)


 私たちはなぜ、ある曲はよいと思い、またある曲はつまらない、と感じるのか。自分の「好き嫌い」は、どのようにして生じるのか。この本は「自分自身のことは意外とわからない」という、非常に重要な問題を提起している。

 この本を読むと、「この曲はいい」とか「この演奏はよくない」などということを、不用意に発言できなくなってしまう。

 遅ればせながら、筆者はこの本を読んで、考え方が根本的に変わったような気がする・・・しかし、実際はそう思っているだけかも知れない・・・そういうことが、この本には書いてある。

 次は、比較宗教学の見地から。地味な分野だが、音楽愛好家の心理などを考える上で非常に啓発的だ。

5. ミルチア・エリアーデ著
楠正弘・池上良正訳
『オカルティズム・魔術・文化流行』
未来社、1978


 著者は、比較宗教学者。本書の第1章「文化流行と宗教史」は、学問的流行の本質を考察したユニークな論考。現代音楽思潮や古楽のトレンドを考える上で、また演奏スタイルの流行を考える上でも大いに参考になる。

 宗教学関連では、この他、カルロ・ギンズブルグの魔女関連の本(『闇の歴史』など)も参考になる。

 ここでちょっと視点を変えてみよう。

6. スウィフト著
中野好夫訳
『ガリヴァ旅行記』
新潮文庫


 本書は小人国渡航記(第1篇)が有名だが、現代的な意味はむしろ大人国渡航記(第2篇)以降にある。音楽を考える上では第3篇第5章、ラガードーの学士院の記述が秀逸。世の「学問」や「研究」が、いかに容易に錯誤や愚行に陥るか、痛烈に批判したものと読める。また第8章は「書かれた歴史」に関する認識を大幅に修正してくれるだろう。

 第4篇「フウイヌム国渡航記」は、あまりに毒気が強すぎて、読みながら、あるいは読み終わった後、なんとも後味の悪い感じがしてしまう。また第3編第10章で、すでに高齢社会の問題点を、架空のストラルドブラグという存在を通じて鋭く風刺している点にも驚かされる。スウィフトの洞察力にはただただ驚嘆するばかりだ。

 さて、科学論、科学史も音楽研究や音楽史研究について考える際に参考になる。

7. マーチン・ガードナー著、市場泰男訳
『奇妙な論理 –– だまされやすさの研究』I, II
社会思想社(現代教養文庫)


 いわゆる「疑似科学」の実態を、科学的立場から論じたもの。これらの実例には苦笑を禁じ得ないが、しかし同工異曲の諸説が「音楽に関する科学的研究」と称するものにも散見されることに気づかされる。

8. W. ブロード・N. ウェード著
牧野賢治訳
『背信の科学者たち』
化学同人、1988.

9. アレクサンダー・コーン著
酒井シヅ、三浦雅弘訳
『科学の罠』
工作舎、1990.


 一見、客観的・実証的な存在とみなされている科学的発見や科学研究の歴史の中に、いかに多くの虚偽や欺瞞が隠されてきたかを論じたもの。一般に「検証可能」で「再現性がある」とみなされている分野でもこの有様。

 まして音楽という人間の心理にかかわる対象を扱う研究にあっては、いかに主観や思い込みあるいは恣意的な概念操作が介入しやすいか、考えさせられてしまう。

 2010年3月には、東大助教アニリール・セルカンの経歴詐称、論文盗用、剽窃が明らかとなった。筆者は彼を非難しようとは思わない。いつの時代にも、どこの国にも、誇大妄想癖の人物は存在するし、詐欺師も存在する。問題はセルカンの嘘を見抜けなかった大学関係者や学会関係者、そしてメディアにあるというべきだろう。お恥ずかしい話だ。

 さらに2014年にはSTAP細胞問題が起り、同年8月には関係者のひとりが自殺するという深刻な事態に至った。当初、大発見としてマスメディアによって大々的に取り上げられたこともあって、上述のセルカン事件よりもはるかに広範囲に知られるようになったが、これまでの捏造事件の教訓が活かされなかった事例というべきだろう。


10. ヘルマン・ヘッセ
『ガラス玉演戯』


 研究者、教育者が自らどのように成長してくべきか、また、教師や指導者はどのように学生、弟子を指導するべきなのか、という点で、学ぶべきところが多々ある。また、文明批判という点でも、現代に通じる慧眼を感じる。ただし、筆者の乏しい脳みそにとっては、なんとも難解な著作で、ヘッセの真意は測りかねるところがあるし、音楽の扱いには、やや観念的なところがあり、必ずしもすべてに共感できるわけではない。

11. ソースティン・ヴェブレン
『有閑階級の理論』
講談社学術文庫2308


 古今東西、音楽、特にクラシック音楽(西洋芸術音楽)は経済的に繁栄した国や地域で発展してきた。社会に余裕がなければ音楽は発展しない、といっても過言ではない。

 さて、ヴェブレンは、衒示的間暇 conspicuous leisureと衒示的消費 conspicuous consumption という言葉で、王侯貴族や富裕層の生活様式を説明した。ルイ14世はヴェルサイユに貴族たちを集めてオペラやバレエを上演し、さまざまな娯楽を享受した。エスタハージ公爵家の何人かの当主はハイドンに音楽を演奏させて楽しんだ。暇とカネを持て余した19世紀フランスの富裕層の夫人や令嬢たちはショパンにピアノを師事した。

 これらは衒示的間暇とみなすことができるが、同時に「経済力の誇示」でもあり、衒示的消費の側面もあった。そして浪費が行き過ぎると、どんな富者でも経済的に破綻する。

 民族音楽の中には、庶民の生活に基盤を持つ伝統もあるが、いわゆる芸術音楽や宮廷芸能は、ヨーロッパに限らず、権力と富の象徴だった、といってよいだろう。


 本書は、端的に言えば音楽や諸芸術が「金持ちの暇つぶしと浪費」のために存在してきた、という歴史を考える上で、大いに参考になる。建築、家具調度品、絵画彫刻など、手間暇かけて、入念に作られた贅沢品が、現在では芸術作品とされている。音楽も例外ではない。

 さらには音楽評論や音楽研究もまた、衒示的間暇から生じたものであり、現在も、一部では衒示的間暇として、高踏的な暇つぶしとして存在し続けている。

12. ヴェルナー・ゾンバルト
『恋愛と贅沢と資本主義』
講談社学術文庫1440

 

 西洋音楽の重要なジャンルとしては、まず教会音楽が挙げられるが、もうひとつ、「恋の歌」にも長い歴史がある。本書には、直接、音楽に言及した部分はないが、宮廷文化や社交界について論じており、そこに存在してきた、恋にまつわる音楽や、ダンス音楽、オペラやバレエの背景を考える上で、非常に参考になる。

13. 宇山卓栄

『経済で読み解く世界史』
扶桑社、
2019

 本書は、経済の観点から西洋史、東洋史を極めて簡潔に、しかし説得力ある仕方で解き明かしている。

 一般的な「世界史」や「日本史」では、しばしば歴史の変遷を政治体制の変化や、重要人物の事績の積み重ねとして説明しがち。しかし、マルクスの唯物史観では、物質的経済(下部構造)が社会制度(上部構造)を規定する、と考える。本書の冒頭では、エンゲルスの以下の一文が引用されている。

 「人間は政治、科学、宗教、芸術などと関わる前に、何よりもまず食い、飲み、住み、着なければならない。(中略)ある国民またはある時代の、その時々の経済的発展段階が土台(Basis)をなし、そこからその人々の国家制度、法律思想、芸術、また宗教的観念は発展してきた。従って、これらのものもまた、この土台(Basis)から説明されなければならない。」

 このことは音楽史に関してもあてはまる。古今東西、音楽は、政治的に安定し、平和で、しかも経済的に繁栄している社会で開花した。パリ、ロンドン、ウィーン、ヴェネツィアはその典型的な例だ。そして、これは21世紀の現在でも変わらない普遍的な原則といえる。

 中学や高校の「世界史」の教科書では、政治上の事実の羅列が主で、経済的背景が十分説明されていない。そういった「歴史」に不満を感じるなら、本書を読むことを強くお薦めする。

 

14. 呉座勇一

『戦国武将、虚像と実像』

角川新書、 2022

 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などについて、史実とは認められない推測や創作がなぜなされてきたのか、時代背景から論じている。たとえば、秀吉の朝鮮出兵は、明治以降の日本の朝鮮半島政策を反映して再解釈、再評価され、それに伴って秀吉像も変化した、ということが述べられている。
 作曲家や演奏家の伝記や評伝を読む上で参考になる。

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補遺:音楽学と音楽評論

 音大や一般大学で音楽学を専攻した後、音楽評論を書く人がいるし、音楽研究と評論活動を並行して行う人もいるため、しばしば音楽学と音楽評論は混同される。また「評論を書きたいので、音楽学を勉強したい」という学生もいる。

 

 しかし、筆者は科学的・実証的研究としての音楽学に音楽評論を含めるべきではない、と考える。端的にいえば、音楽評論は文学であり、読み物だから、読んでおもしろければよい。客観的裏付けがあるかどうか、事実に依拠しているかどうか、よりも書き手の想像力が問われる。場合によっては造語や象徴的な語法を採用することも評論には認められるだろう。

 そもそも、音楽評論のルーツのひとつは、19世紀の貴族や富裕層のサロンの芸術談義。彼らはサロンに集い、文学談義、芸術談義で時間をつぶした。目的は暇つぶしだから、内容は千差万別。啓発的な議論もあっただろうが、愚にもつかない言葉遊びもあったことだろう。

 

 他方、筆者の考える音楽学は、あくまで事実に基づく実証的な研究だ。そこでは、たとえば研究者の推測がなされる場合でも、可能性の範囲を公正に提示しなければならない(自説だけではなく、他の説もあるなら言及する、など)。また、同語反復的で内容空疎な美辞麗句や、多義的・象徴的でどのようにも解釈できるような語彙・語法あるいはレトリックで音楽や音楽家を説明するのではなく、誰もが検証可能、再現可能、反証可能な範囲で記述するべきだ。

 

 そうでなければ、いつまでたっても「あなたはそう思うだろうが私はそうは思わない」で議論が先に進まず、知の蓄積や発展も期待できない。

 

 この意味で、音楽学的記述が地味で、ある意味ではつまらないものであったとしても、それは仕方ないことだろう。

最終更新:2024.03.29

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